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日記で切磋琢磨:Even Dozen Jug Band

at 2002 06/14 15:33

◆前と逆の事をいおう。個人HPの良さのひとつに、日記というものがある。ほぼどのHPシステムにもついているやつだ。

◆あなた、「日記」を書いたことありますか? 学校の夏休みの宿題位じゃないですか? それもやはり三日坊主、8月も終わりになってでっち上げたり、天気を調べたり。。。日記なんて書きませんよね。ましてや社会人になってまで。

◆でもHPの体裁での日記って結構續くんですよね。公衆にの面前にさらされている責任感やサボっている事に対して、他人が気付くという心苦しさが、飽きやすい人にも日記を続けさせるのでしょう。そして、やはり他者が読むことを考えると文章を推敲してしまう、人によっては下書きなんかしたりして。。。普段文章なんてこれっぽちも書かない人たちが、自分の想いや出来事、妄想や創作などを、どうやったら読みやすいか意識しながらつづっていく。

◆それにより文章の見せ方を考えるのはもちろん、自分の漠然とした感情を形にする作業を日常的に行ない、それってどういう事なの?と自分に対して疑問を投げかけ始める。流せば流していける日常に対して、もう一歩深くそして明快に考える努力をはじめている。

◆「大好きだと思っていたけれど、実は音楽ってそんなに好きじゃないんじゃないか?」「おれっていつも同じような事に悩んでいるな」「あいつの云った事ってどういう意味だったんだろう」。様々な物事に対して、今まで以上の考えていく。そこから無自覚の意識や嗜好、無感覚の意図が見えてくるのかもしれない。学校でも職場でもなく、物事を思考する場所の登場である

◆HPを持っている人間の多くが理系、それもコンピューター関係の仕事であろう。以前だったらSEがエッセイや物語を、頭を抱えながらつづっていくという状況はかなり奇異なものだったであろう。しかしWebというシステムが理系の人間に文学青年たち以上に想像の発表の場を持ってしまった。

◆ここで人生とは?とか悩んだり、他人の無意識な言葉に傷ついたり、曖昧な発言に悩んだり、理由もわからず村八分になったりという、妙に人間臭い経験を詰んで行くのであろう。ワイワイがやがやと無名の人間がHPを作り出し、そこで国籍も職業も年齢も性別も違う人々と知り合い、文字という非常に危うくか細い媒体のみをたよってコミュニケーションをとっていく。

◆今日のBGMはThe Even Dozen Jug BandのファーストFolklore Du Sud American。若かりし日のJohn SebastianやMaria Muldaurがいたバンドだが、まだ彼らも無名だった。学生のような出で立ち(学生なのかも)の大所帯(12人!)のジャグバンド、彼らもカフェやカレッジで出会い、切磋拓馬し、離合集散を重ねながら音楽文化の成長の一助になっていったのであろう。

◆ここから抜けたMariaがJim Kweskin The Jug Bandに加わり、Geoff Muldaurと知り合い、そして世界的なシンガーとなっていく。SebastianがLovein' Spoonfulで。中心人物の一人Peter Siegelが様々なレコード会社のトップとして歴史を作っていく。でも全ての原点がこういう有象無象の集合体である大所帯のバンドでのワイワイがやがやであったところなんかとても歴史的なものを感じる。

◆無名の個人HPからもこういう歴史に残るような素晴らしいものが現れるのであろう。そしてそれらがメインストリートを変化させていけばいい。

◆こんなHPもあった→AmericanMusic

換骨奪胎:Templeton Twins

at 2002 06/21 05:31

◆やはりビートルズは素晴らしく唯一無二である。そんな周知の事実を再確認する機会がちょっと前にあった。

◆あるバンドのライブに行った時の事だ。そのアーシーでレイドバックした雰囲気を作るバンドはオリジナルの合間に様々なカバー曲を聴かせてくれた。Song For Youやガンボなどの南部サウンドが彼等の音に合うのは勿論だったが、パール兄弟やムーンライダースなんていうおよそ想像し得ない曲まで自らのアレンジで作り直し、まるでオリジナルの様に溶け込ませていった。曲に対する理解と解釈の面白さを充分堪能させてもらった。

◆しかし、その中で唯一問題があったのがビートルズナンバーだった。レノンの佳曲のキーをピアニストが叩いた途端に、バンドのアーシーなカラーは消え去った。彼等がどれほどこの曲を愛していたのかも充分わかるし、自分たちの物のように演奏しようとしたのも充分伝わった。しかしこの瞬間だけは紛れもないビートルズのコピーを聴かせる時間となってしまった。

◆演奏者にも個性があり、楽曲にも個性がある。その組み合わせで音楽の良し悪しが決定する場合がある。そしてまた聴く人間にも思い入れがあるから、「この曲は何某のヴァージョンじゃなければ」という印象も残る。それは良し悪しの場合もあるが刷り込みの場合も多い。

◆しかしビートルズの場合は、その楽曲の個性が余りに強すぎ、また演奏者(つまりビートルズ)の個性も強すぎるので、それがセットとして印象付けられすぎているので、誰がどのように演奏しようとその演奏者の所有物にはなりがたいのであろう。そこが彼等を越える事の出来ないスーパーバンドにしている理由なのかもしれない。ストーンズの曲はカバーできるがビートルズの曲はコピーしか出来ない。

◆と思っていたら、ぼくの考えを根本的に覆すアルバムに出会ってしまった。

◆双子の芸人Templeton Twinsの73年のリイシューだ。TRILL IT LIKE IT WASと名づけられた30分にも満たないアルバムは全曲カバー。ドアーズの Light My Fireやジム・ウェッブ作の MacArthur Park By The Time I Get To Phoenix 、フランキー・ヴァリ(現在はBoys Town Gangとか椎名林檎といったほうがわかりやすいか)の「君の瞳に恋してる」 、そしてビートルズの Yesterday Something Hey Judeなどなどが30年代スタイル(クルーナースタイルというらしい)で演奏されている。要するにフィドルやクラリネットなんかを中心にまったりとスイングさせているわけです。

◆さすがにイエスタディなどは歌詞を充分知っているから気づいてしまうだろうが、BGMで流れていたら誰が「ヘイジュード」だと、「君の瞳に恋してる」だと気づくであろうか? まさに換骨奪胎という言葉がぴったりだ。ミュートのホーンがスイングしながら始まる「ハートに火を付けて」なんてベッドタイムミュージックのスタンダードになりそうな名演奏である。

◆このように全く違ったものにしようとする場合、往々にしてその曲の個性や主張を鑑みず、「一個の素材」として処理しがちだが、この双子兄弟は決してそういうことはしていない気がする。しかしその代わり、世のヒットパレードに対してのアンチテーゼとしての自分たちの解釈(新しいものを過去のものにしてしまう)をすることで、それらの曲に普遍をもたらそうとしているのではないだろうか? 

◆流行歌というものの宿命であるアウト・オブ・デイト化を防ぐために、普通は新しい衣を着せ替える(=最新のアレンジでカバー)のであるが、彼等の場合は「今でも古い」(=もうこれ以上古くなりえない)状態にして、自分の愛する曲たちを流行遅れになるのを防ごうとしたのだろうと勝手に解釈してみる。

◆とりあえず和む、笑える、いい気分になれる。いい音楽だ。一日の終わりにこういう音楽に浸るのはかなり贅沢な部類に入るであろう。

◆それにしてもビートルズまでを解釈してまったくオリジナルにしてしまう奴等がいた事には驚愕する。しかしここまでしないと他人の物にならないビートルズナンバーの個性というものにも改めて驚くのである。

◆このアルバムに関してはHiFiレコードストア内emレーベルまで。

今月のオトシャベリへ、●アーティストリスト


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