<<前月
2002年4月
次月>>


春を謳歌する音:Wild Magnolias

at 2002 04/11 12:53

◆春、新年度、新生活

草花が種の繁栄を謳歌して、花粉を撒き散らす春

若葉が眼にまぶしくて、思わずサングラス越しでさえ薄目にしてしまう春

新たな気持ちで、新たなノルマをこなさなくてはならない、一年の努力がリセットされる春

長い眠りから覚めた昆虫達が獲物を求め、ハウスダストの中から、僕らの生き血を狙い始める春

転任、新入社、人事移動のために引継ぎや教育作業が増え業務に支障の出る春

歓送迎会や花見などで出費のかさむ春

翌年の税金対策のために残業時間に注意を払わなければならない春

早く冬がこないかなぁ。。。。。。。。。。。

◆そんな後ろ向きな僕でさえもイメージとしての「春」には、やはり心踊るものがある。ニュー・オーリンズのブラック・インディアン・トライブの代表的存在であるWild Magnoliasの98年のグループ結成25周年記念作品アルバムLife Is Carnivalは、僕にとっては、そんな心踊る「春」のイメージに満ちあふれている。

◆このメジャー第1作の力強さ、前向きさは並大抵のものではない。まずジャケだけでも充分魅力的だ。カラフルで派手なのはブラックインディアン(黒人とネイティヴの混血部族)ものとして当たり前なのだが、その派手さが明るい。原色の強い普通のインディアンものと違い蛍光色で溢れている。まるでフォトショップを手にしたばかりのひよっこデザイナーがウォーホールのコラージュを現代風にアレンジしたかのようだ。

◆けなしているようだが、充分目立つし、明るい(真昼ような)力強さが伝わってくる。各々の写真もいい笑顔をしている。明らかに自信作であることが伝わってくる。

◆音自体もそうだ。まるで野人の雄叫びのようなゾクゾクする露払いから始まるこのアルバムは、まさにファンキーという言葉がぴったりな内容だ。キレのいいピアノに絡んでくるギター、そして重く腹の底にくるくせに決して粘着質ではないベース、そしてボー・ドリスとモンク・ブードゥルーの二人の大酋長のボーカルも高音と低音が上手く絡み合っていて、息の合い方もまさに職人芸、非常に気持ちがいい。全てがピシっと決まっていて全てが身体中に響いてくる。

◆普段ファンキーという言葉で想像する音楽ってのはダンスミュージックなわけで、そうなるとイメージとして、大体「夜」、ミラーボール煌く箱の中で踊り狂う男女という閉鎖的なイメージがあるが、このアルバムはなんか違う。音がリズムが歌が開放的なのだ。まるで野外フェスティバルそのもの。NOファンクが所謂FUNKとは全く違うことを再認識させられる。

◆4曲目のタイトル曲、The Bandのカバーも注目したい。The Bandらしい泥臭さは確かにあるが、それよりも彼らの「力強さ」の方が印象的だ。6曲目のシリルネビルとの共作、10曲目のDr.Johnとのデュエットもとても味がある。

◆バックミュージシャンもスゴイ。前述のDr.JohnやCyril Neville、Funky MetersのドラムRussell Batiste、ゲイターズのドラムWillie Green、ピアノのDavell Crawford、そして日本からはBlack Bottom Brass Bandが参加している。

◆正式メンバーとしては2作目の参加の山岸潤史(ベース)は今回はプロデューサーとしても活躍している(山岸がプロデュースしてBBBBが参加している7曲目がもっともNOらしいというのも興味深い)。

◆Dr.Johnの曲も4曲もあり、作曲・演奏ともに、これだけ多くの他人とのコラボを抱えるというのも前向きにいい音楽を作っている証拠かもしれない。

◆こうやって見ると白人黒人黄人赤人、人種の坩堝と化したニューオリンズのまさに縮図、人種・民族・社会全てを通り超えて、音楽によって一体となった大きな家族のあり方が見えてくるようだ。

◆さまざまな人種が混ざり合い、明るく前向きで開放的な音を作っているこのアルバムはまさにすべての生命が無軌道にその繁栄を謳歌する「春」という瞬間にもっとも相応しい音楽なのだと思う。すばらしいアルバムだ聴きなさい(笑)。

◆オフィシャルはwildmagnolias.net



ロリータ考:Charlotte Gainsbourg

at 2002 04/09 14:35

◆「ロリータ、わが生命のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。舌の先が口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く舌にあたる。ろ。リー。タ。」

◆ロシアンアメリカンのナボコフ(Владимир Набоков,Vladimir Navokov,1899-1977)によるこの小説を読んだ人はあまり多くないと思われるが、「ロリータ」という言葉を知らない人はいないだろう。一般に「ロリコン」と呼ばれる少女嗜好性癖の元になった言葉だ。実はかなり理屈っぽく退屈で冗長なこの小説の中で描かれる「少女」は、我々日本人が想像する「ロリータ」としての「少女」のイメージとしてはあまり似つかわしくないものだ。

◆小説及び近年のハリウッド映画で描かれているロリータは、主人公の苦悩するハンバート教授をその肉体で魅了し、最後までリードして利用しつづけてしまう12歳の少女、まるで峰不二子の少女版のような存在だ。キューブリック版の映画では年齢も高めに設定されており、直言的にSEXは描かれていないものの、奔放で自分勝手な小悪魔として教授を振りまわすロリータの姿はとても印象的に描かれている。まさに手練手管、外見が少女なだけのまさに妖婦である。教授は自分の少年時代の悲恋というトラウマから彼女に惹かれていくが、この物語を読む限り、出会ったのが他の娘であればこんな悲劇は生まれなかったのでは?という印象が残る。

◆この考えに対して主人公は、こう回想する「少女が九歳から十四歳までの間に、自分より何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性をあらわすことがある」。要するにロリータは恣意的に男を惑わす悪魔なのである。

◆さて、日本人にとってこういう小娘は「ロリータ」であろうか? 「ロリ」という言葉で想像するキーワードといえば「童顔」「処女」「制服」「スクール水着」「おにいちゃん」「無垢」「無知」。。。。。間違っても「小悪魔」や「ニンフ」ではない。日本の男性が考える「ロリータ」とはあくまで「無垢」で「従順」で「守ってあげる対象」なのだろう。「うるうる」涙を流したり、語尾に「にゃん」「にょ」「みゅー」とつけるような行為をカワイイと思うのは欧米の「ロリータ」ではない。

◆ここに日本と欧米の男性の女性観の差異というものがある。「女性を守りたい」男性が、自分より強くない「対象」としての「少女」を欲望する日本の意識は特別なものなのかもしれない。こういう土壌が「何もいたずらをしない少女監禁」という不可解な事件を起こし得るだろう。

◆まぁそれが良いのか悪いのかは、個人の倫理観・異性観なのでなんともいえないが、アニメ系コミックで食っている自分としては否定はしない。とりあえず同意がない交渉は犯罪です。

◆月並みではあるが、80年代全世界のロリータファンを湧かせたCharlotte GainsbourgのLemon Incestは父親Sergeとのデュエットで、近親相姦を匂わせた曲として話題になった。父親に男を見出し、その性的な部分を引き出そうとするこの曲もまた「ロリータ」=小悪魔という西洋的少女嗜好観を元にしたものである事は明らかであろう。何も知らない美少女より、知らないはずなのに知っている美少女の方が、西洋人にとっては魅惑的に写るらしい。

◆画像はタイトル曲を中心としたBESTLemon Incest。詳しい資料は→。全世界のアイドルももう31歳かぁ。。。

自分の名前:YUKI

at 2002 04/11 12:55

◆名前というのは面白いものだ。

◆その昔、高橋源一郎が「さよならギャングたち」で名前のないことの不安さ、人は名前がつくことで初めてモノを認知するというようなことを言っていたが、モノ事を定義付け、認識するのに名前というのはなくてはならないものだろう。

◆名前というのは不思議なもので、まず、自分を命名することはない。人の名前は大体、親がつける。モノの名前は開発者か所有者が決める。唯一、自分で自分に命名する場といえばペンネームや芸名だろう。これはいわゆる「もうひとりの自分」を仮想成立させ、その名前をブランドとして商売を行なうということであり、いわば自分の会社を命名するのと同じことである。

◆しかしインターネットというパラレルワールドが跋扈する現代になると話が違う。だれもが自分を命名することを可能にする環境が出現した。ハンドルネームやメールアドレスというヤツだ。これはとても興味深いもので、一個人が自分の私的な場に向けて、「僕はこう呼んで欲しい」と宣言するようなものだ。

◆西洋なら「My Name Is Robert Please Call Me Bob」とかって言う自己紹介は普通だが、日本ではまだまだ呼称は相手任せである。健太くんをケンボウと呼ぼうとケンチャンと呼ぼうと、本人の許容の範囲なら、アリだ。本人はケンチャンと呼ばれたいと思っていても、一生ケンボウと呼ばれるかもしれないのだ。それは誰にも止められないのが普通なのに、HNはそれを決めることができる。

◆例えばSUNHEROさん、現実では別のニックネームだったり、苗字で呼ばれてたりするかもしれない。しかし、ネットでは彼はSUNHEROなのであり、自分で決めたSUNHEROという名前で呼ばれることを求めているわけだ。僕も五條淳彦という、本名とは似ても似つかぬHNでネット世界で生活しており、Gojohというメルアドからも「五條さん」とか「あつひこ」とか「あっちゃん」とか呼ばれている。

◆名前を決めるというのはその人(およびモノ)を縛ることでもあり、そこに願いを込めたり、その特徴を文字で表現することである。つまり自分に名前をつけるというのは、自分のキャラを自分で固定化し、他者に分かりやすく伝えるという行為なのだ。それは自分のキャッチコピー化であり商品化である。個人が自分自身をキャラクタライズし、看板として世に問うという行為、誰でもがそんなことをするチャンスがある今の時代というのは、まさにアイデンティティの問われる時代といえよう。

◆さて、元Judy MaryのYUKI、ソロデビューしていきなりトランジスタグラマーとなった。まぁ2作目のPrismでは「らしい」感じになっているのでSeagull Screaming Kiss Her Kiss Herの影響なんだろうな、と納得したのだが、the end of shiteを聴いたときの(いや見たときの)ショックは忘れられない。ソロになってJudy Maryという青春バンドのボーカルというアイデンティティを壊したかったのだろう。

◆YUKIなんていうどこにでもある名前に対する付加価値をつけるとともに、ある程度年齢も行ってしまったので青春ばかりを歌っていられないという心の負荷も取り除くためのショック療法、自分自身のリニューアルを済ませた彼女の1stアルバムはただいま店頭で大人気である。1週間レンタルになったら借りようっと(笑)。

◆オフィシャルはyukiweb.net

バラード考:Natural Four

at 2002 04/17 16:54

◆実は結構、バラードが苦手だ。

◆メロディが苦手というよりもバラードの音構成が苦手なことが多い。たとえば最初にピアノかギターのナマ音とボーカルで始まり、途中でエレキとドラムが激しく絡んで盛り上げていく「Let It Be」タイプ。タイタニックやアルマゲドンのテーマなんかもそうだ。さあ泣いてくれ!と強要されてるような気がする。つむじ曲がりの30男はそう言われると絶対泣けない、泣くもんか!(笑)

◆また、60年代MOTOWNを中心としたソウルバラード、モッタリしたストリングスを中心としたヤツだ。甘いひたすら甘いこれらのバラードも苦手だ。これは歌自体というよりも音質が悪く、ストリングスが重たく聞こえることが多い。そしてまた、黒人の甘さと来たらコーヒーに砂糖大さじ五杯分くらいあり、一曲ならまだいいが、大抵のボーカルグループって言うのはアルバム一枚バラードばかりだったりするわけで、すぐさま食傷気味になってしまう。

◆Manhattansやthe Whispersなんか、一曲一曲がラジオから聞こえる分にはとてもいいのだがアルバム一枚を通して聞くのはツライ。飽きる。テディペンやルーサーヴァンドロスやアルビーシュアなどの80年代ブラコン兄ちゃん達もこの系統だ。

◆よーするにバラードは重い。古いバラードは音が重いし、盛り上がるヤツは感傷が重い。トーチソングは、それ自体重い(笑)。アルバム一枚バラードだと胃が重い感じだ。

◆そういう意味でNatural Fourの74年のアルバムHeaven Right Here on Earthはとても気持ちがいい。Curtis Mayfield設立のレーベル「カートム」のコーラスグループだ。70年代らしいメロウでスィートなメロディ。普通はモッタリしたストリングスで熱く唄いあげそうなところを、小気味いいリズムと淡々とした職人っぽいコーラスで軽やかに決めている。これじゃ泣けない。感情移入を強要しないばかりではなく拒絶している様だ。移入しようというリスナーの感情を、ひょいひょいっと軽くかわしていく。その軽味がメロディと音だけを客観的に楽しむことを可能としている。

◆また、オープニングのHeaven Right Here on Earthを筆頭にCount On MeやBaby Come Onなどのミディアムも、アコギを中心としたナマ音っぽいタイトな仕上がりになっている。これがとてもオススメで、このグループの売りでもある。その軽く締まった清涼さが全体を緊張感のあるトーンに染めていく。小気味よくタイトで緊張感のあるアルバム、4人のバランスのとれたコーラスも伴って、とても気持ちいいアルバムとなっている。ディープな甘味よりも軽みを好む年代になったからには、バラードはこうあって欲しいものだ♪

躊躇:Elvis Costello

at 2002 04/21 23:29

◆たとえば、自分から別れた女がいたとしよう。

◆惚れて付き合ったくせに、相性が悪いだのアイツは変わってしまっただの理由をつけて別れてしまった。

◆しかし、数年ぶりにそんな彼女を見かけてしまい、そのイイ女ぶりに、こいつやっぱり別れなきゃ良かった。。。なんて後悔するかもしれないよな。

◆昔はイイ女だったのに、なんか思っていたのと違う方向へ行ってしまったように見えた彼女、でも実際は違うほうに行っていたのは自分の方で、彼女は何も変わることなく成長していただけだったのだ。

◆なーんてことが分かっちまうと妙にブルーになったりして、だから急いで買ったのに、ターンテーブルに載せられないでいるElvis Costellowhen i was cruelであった。

温和な労働者と便利な発電所:ムーンライダース

at 2002 04/22 13:21

◆ぼくが大学生の頃、男女の雇用機会均等とか女子社員の制服廃止なんかが話題になっていた。なんでわざわざキツイ仕事をしたいのかなぁ、制服がなくなるということは、毎日着るものを悩まなくてはならない(お泊まりしても同じ物を着ていけない!)、要するに出費がかさむのに、と感じていた。

◆就職の頃、多くの企業がフレックス制度を取り入れはじめ、みんな喜んでいた。要するにどれだけ働いても給料は変わらないという制度なのにみんな進歩的だと評価していた。

◆今、給料が年功序列から能力主義へ、「年度内に成果を出す」という方向の能力がなかったり「今の職務が合わない人」が評価されず、直属の上司とそりが合わなければ永久に昇給が止まったままの状態に。みんな自分が能力があり、評価されるはずだと思っているのか?

◆そして時流は終身雇用廃止へ、一生居られるかどうか分からない会社が増え、給料が増えず残業代もない。

◆そういえば、小泉政権による増税断行や福祉事業の廃止という聖域なき構造改革の精神的バックヤードになったのは「都市浮動層」からの人気、つまりサラリーマンからの人気だ。

◆高度成長時代、日本人は働きバチといわれ薄給無私での奉公が美徳だったと聞くが、雇用側に利得になる体制が労働者にも好まれるということは、今でも昔でも変わらないものらしい。日本人の本質なのだろうか?

◆結成25年でオリジナルアルバム20枚、ベスト14枚、ライブ2枚、そしてソロワークまでまとめると、毎年最低2枚のアルバムを聴く事の出来るムーンライダース、彼らもやはり働きバチなのだろう。その結成からして「音楽で食うことができる」という現実的な主題のあるバンドなだけに当たり前といえば当たり前なのだが、本当に彼らは律儀である。その律儀さが少数ながらもファンを掴んで話さない理由であろう。商業ベースで作品を発表できるってのは素晴らしい事だけど、それは彼らだから出来るのであって、普通そこまで縛られてしまうと才能が枯渇しかねない危険性がある。

◆「マニア・マニエラ」(1982)「最後の晩餐」(1991)「Dire Morons TRIBUNE」(2001)。毎年新作を発表しつつ、10年に一回きっちりと「革新的なアルバム」を出すことの出来るアーティストは本当に稀有だろう。

◆みんな、真似しちゃいけませんよ、みんなは時流に流されず自分の歩幅で歩くのです。そういう事が出来ない環境にあるのならば戦わなくてはならないだろう。

「温和な労働者」諸君、そろそろ立ちあがらないか?

子供の誕生:Young Guardians of the Flame

at 2002 04/26 23:12

◆フランスの歴史学者フィリップ・アリエスによると18世紀まで「子供」というのはこの世界にいなかったらしい。

◆生まれたときには成長していた、という妄想話ではなく、「子供」と「大人」という概念がなかったという事だ。(まだよちよち歩きのBabyは別として)「子供」というのは「大人」の小型版であり、その間に明確な線引きはなかった。学校制度というものが確立していなかった時代には、肉体的に成長段階にある人も、もう成長して老化をはじめる人もどちらも同じく「働き手」であり「食い手」でしかない。習熟度の差はあるが、それは個人能力の差であり、非力な人間にもできる仕事はいくらでもある。徒弟制度は大人と子供を分けるものではない。

◆言葉の上でもChild自体「おさなご」を表す意味であり、その語源と思われるchildeにおいては「貴人の子弟」という意味に使われている。日本に於いても「子」は親との関係を表す単語であり、「子供達」と尊敬の複数形を使うことからも「貴人の子」だけが「子供」だったのであろう。「貴人の子」には元服というイニシエーションがあり、明確に「大人」と区別できるが、庶民には区別はない。

◆そういう考え方からすると、子供は大人の小さいバージョンであり、子供向けの本や子供向けの文化、洋服・食べ物という概念はなかった。つまり大人も子供も同じ文化、同じ環境を共有していたのである。

◆子供が子供として成立したのは、学校制度という閉鎖空間が発足したときである。学校という制度により子供は労働力ではなく発達途中の保護される対象として認知されるようになった。精神病院が出来たから精神病患者という存在が生まれたというのと同じ理論だ。

◆保護される対象として見なされていれば、当然、責任感も厳しさも欠如するし、そうすれば精神的な成長も遅れる。学校制度が期間を増すほど精神的な成長は遅れていく。そう考えると、自民党の麻生太郎政調会長の弁である「義務教育を小学校までに」という考え方もあながち間違ってはいないはずだ。

◆早い内から子供を保護=隔離空間から解き放ち、大人と同列の扱いをすることで精神的に成長させるという方法は復古主義的に感じられるかもしれないが、現在の少年犯罪の異様化を考えると有効な手段のように思える。

◆そうはいっても日本の会社社会なんて学校の延長的な空気が大きいからあんまり成長しないのかもしれないが。。。

◆でもやはり自分がもし親となったら、子供は子供だという風に大人と区別をしたりせずに、一人前として接していきたいと思う。子供を対等の目線で見ることによって、子供自身の中に責任感や自我や思考が芽生え、それが一人の人間としての成長となっていくのだろう。

◆POPSの世界では、それが「人気」によって支えられているものである限り、大人と子供、先輩と後輩という差はない。たとえ8歳の子供であれ、72歳の老人であれライバルはライバルだし、コラボにおいては子供だからといって演奏のミスは許されない。

Young Guardians Of The FlameNew Way Pockey Wayを聴いていると、ここには3世代の家族(TRIBE)が互いに尊重しあい、学びあった足跡が見える。

◆彼らは1988年に新しく出来たトライブ(ブラックインディアンの血縁部族)であり、1998年にこのアルバム録音直後に逝去したビッグチーフDonald HarrisonSr.、息子のJr.と娘の子、要するにSr.の孫にあたる17歳のNelsonを中心に録音がされている。

◆65歳ビッグチーフの指導による古式ゆかしきニューオリンズサウンドと10代のネルソンを中心とした若い世代によるHipHop風味が程よくブレンドされ、そこをトロンボーン奏者であるJr.の音楽センスでかっちりとまとめ上げている。すべてが互いを食うことなく、またかすれることもなく、尊重しあい、ぶつかり合う。そこには大人も子供もない、甘えも上から見ることもない。そんなステキな関係が家族間に成立しているアルバムがこれだと感じる。いいアルバムだ。

今月のオトシャベリへ、●アーティストリスト


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送