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厳しさをまだ知らない精神:小沢健二

at 2002 03/06 00:01

◆久し振りにLifeを聴いた。いろいろな想い出のあるアルバムだ。

◆若かりし頃の悲喜こもごもの出来事がこのアルバムに詰っている。同じような気持ちを持っている人は同世代には多いだろう。このアルバムは本当に「時代の寵児」だった。ヒットチャートを駆け巡った話題のアルバムというわけではないが多くの同世代人の、あるイチ時期を明確に切り取ったアルバムだった。

◆しかし、どんな想い出があろうとなかろうと、このアルバムを聴いてノスタルジーに浸ることはない。何故なら、そんな懐古趣味に漬かる間もないくらいこのアルバムは前向きで楽しくPOPなアルバムだからだ。

◆日本初の本格的ネオアコアルバムだった1st、POPにあふれていたColour MePOP、そしてコーネリアスにつながるサイケ風味のラストアルバムを通じてPOPだったオザケン。しかしソロデビューするいなや「犬キャラ」とか「犬」とか呼ばれる1stソロタイトル変えるなよぉ(−−;)で突然男らしくなっちゃって、ビビったのだがこのLifeでやはりオザケンはまるごとPOPだなぁと再認識させてくれた。

◆ここでの特質はそのPOPさが決してネオアコPOPのみではなく、MOTOWN的なPOPさも持ち合わせていたことを僕らに教えてくれた事だ。「Lovely」や「ドアをノックするのは〜」、そして「ブギーバック」などの煌くようなPOPチューンは、シュープリ-ムスやジャクソン5、ミラクルズなどの白人化された黒人POPSを彷彿とさせる。しかし、そういう方向に進むのか!と思わせておいて室内楽的な「球体」へ進んでしまった彼、誰も想像できない、ついて行けないアーティストだ。

◆またまた、彼の面白いところは、喜怒哀楽に疎いところである。「心変わりは誰かのせい。。。」と悲しいはずのトーチソングを高らかに爽やかに歌い上げ、「夜のはじまりは溶ろけるよなファンキー・ミュージック」であり「ワイルドな君 うるわしのフッシー・キャット、僕の手に噛みついてオール・ナイト・ロング」なセクシーでハッピーな曲をまったりと歌う。

◆ハッピーもサッドもシリアスも興奮もすべて柔らかなメロディでコーティングしてなんとなくPOPな曲にしてしまう。彼の曲には大きな悲しみも喜びもこめられない、あるのは日常からほんのちょっと飛び出した感情である。

◆そんな部分もMOTOWN的なのかもしれない。MOTOWNのトーチソングも甘くマイルドで、ファンキーサウンドも良識の域を、決してはみ出しはしない。すべてが中庸、すべてがキャラメル包装の中の出来事なのだ。

◆発売された94年、僕らはとても無防備で、とても希望に満ち溢れ、とても恐れを知らなかった。そしてバブル崩壊後とはいっても、まだまだ世の中は僕らを守ってくれるのにはとても豊潤でとても力に溢れていた。僕らは日本社会という城壁の中で、ぬくぬくとしかしはみ出しすぎないように青春を謳歌すればよかった。そんな時代だからのシュガーソングたち、だからこそ時間を超えた輝きを持つのかもしれない、厳しさをまだ知らない純粋で精神の象徴として。それこそ僕らの人生(life)だった。

◆オフィシャルは→

ノベルティの宿命:吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズ

at 2002 03/11 14:44

◆大瀧師匠がナイアガラをはじめる際、メロディ路線(=シティポップス路線)をシュガーベイブに、ノベルティ路線(=R&R路線)にココナッツ・バンクを任せて双方をコントロールする形で音楽製作を進めようとしたそうだ。しかしココナッツバンクの解散で銀次がシュガーベイブに吸収されてしまったことで、ノベルティ路線を自分で担うこととなり、その結果、Niagara Moonという名作が生まれた。

◆師匠のエリック〜コロンビアの名作連が世の中であまり認められなかった理由として、やはりノベルティ音楽であることがあるのかもしれない。もちろん音楽性の斬新さ等、「ついて行けない」という部分はあったのだろうが、やはり最大の原因は「恋の汽車ぽっぽ」や「ナイアガラ音頭」「空飛ぶくじら」というタイトルでは購入意欲が沸かないということか。

◆もともと日本のメジャー路線は現在でもそうだが、歌詞が真面目な恋愛ものである。恋愛の関係ないヒット曲がいったい何曲あるだろうか? 「ミニモニひなまつり」くらいであろう(笑)。

◆もちろん日本にもノベルティソングのヒット曲はある。「おら東京さいぐだ」「およげたいやきくん」「イエローサブマリン音頭」「DA・YO・NE!」「合コン哀歌」等々、しかしそのままヒットチャートに残ったアーティストが何人るのだろうか? 日本のヒットチャートに残るためにはラブソングあるいはトーチソングを大量生産できることが必要条件なのであろう。

◆師匠の曲も、詞を松本氏に任せた「君は天然色」メロディ路線にしてからはチャートに登ったし、カラオケにも残っている。Niagara Moonの曲の歌詞が「しゃっくりママさん」や「論寒牛男」や「たのしい夜更かし」ではなく「恋するカレン」や「A面で恋をして」だったり「幸せの結末」だったりしたなら、日本のポップスに歴史は変わったのかもしれない。

◆さて、しかし日本にはどうしてもラブソングでは満足できない性質の人間がいる。しかし、熱いブルースや、思わず踊りたくなる楽しい曲であふれているのに、「やっぱり肉を食おう」「ばっちぐー」では一般の音楽ファンの理解を得るには難しいだろう。どの曲も日々の暮らしの中で思わず感じてしまうことばかリで、思わずうなずいちゃったりする曲なのではあるが。

◆一般のオーディエンスが音楽に求めるものは感傷であり、カタルシスであり、現実逃避なのですからやはり「刈り上げママ」ではヒットしないでしょう。勿論本人たちも分かってやっているのでしょうが。

◆この吾妻光良&ザ・スウィンギン・バッパーズの10年ぶりのアルバム「Squeezin' and Blowin'」、可能な限り絶賛したい良質のジャンピンジャイブにあふれています。日本でこれだけの演奏が出来るジャイブバンドって、何人いるのでしょうか? 12人編成の大所帯バンド、ライブもあまりやっていないみたいなのでお金は大変そうですが是非これからも頑張ってほしいものです。しかし初めて全曲日本語になったのに、ライナーノーツが英語ってどうよ?(笑)。鋭いギャグにあふれています。。。

聴けば聴くほど:Stanton Moore

at 2002 03/13 00:33

StantonMooreのセカンドアルバムFlyin' The Koopの発売日、僕は勇んでレコ屋に向かった。

◆心をときめかせながら試聴コーナーへ、しかし、Galacticらしいセカンドラインやソロファースト「All Kooked Out」のようなブルーズィーな音を期待した僕の耳に襲いかかったものは、もうもうと土煙を上げながら、突進してくるようなドラミングとMMWのRemix盤あるいはDj Logic(同じか!)のようなファズの利いたノイジーなメロディだった。

◆なんだ?なんだ? 確かにこういう音も流行りだし、嫌いではない。がんばって続きを聴いてみるも、延々と続くノイジーなギターソロの曲まで来て投げ出した。こんなものを期待していたわけじゃなかった。裏切られたような傷心を癒すため、Mooreに使うはずだった2500円で、ぼくはニューオリンズのブラスバンドを手に入れた。New Orleans Night Crawlersのライブだ。

◆それから数日後、たまたまOrganic GrooveのHPを覗きにいったところ、再びMooreの試聴コーナー、再挑戦すると、最初ほど悪くはなかった。1st程ではないが、まぁファンを自認するからには是非購入せねばという動機を後押しするには十分だった。しかたねえや。。。ぼくはその三日後、悩みに悩んでFlyin' The KoopをNicePriceな輸入盤(笑)で購入した。それも、NGだった時の保険用にRobert Walterの新作も添えて(汗)。

◆あれからそろそろ一週間、僕は毎日Mooreを聴いている、通勤の行き帰りも、家の中でも。おどろおどろしかった爆音はドラムとウッドベースの小気味良いグルーヴとなり、ノイジーなはずのメロディはカール・デンソンとシュケリックの美しい二本のブラスのコンビネーションとなった。

◆一作目とは確かに違う。メジャー初ソロアルバムだけあってムーアの気合の入れ方も尋常じゃないのだろう。一作目の求道的な音とは打って変わった派手なドラミング。まるでそのスティックで自分を世の中に問うているような(実際そうなんだけど)激しいビートだ。そしてやはりKarl Densonの存在が違う。前作で前面に出ていたSkerik(SAX)とBrian Seeger(G)がまるで小さく見える。

◆シュケリックのホーンですらカールの自由自在に舞い踊るフルートやホーンの従者のようになっている時さえある。このアルバムはムーアとカールのせめぎ合いが生んだアルバムではないだろうか? いまさらながらデンソンの存在感に圧倒される。

◆しかし、シュケリックもつかず離れずしながら必死に対抗していく。そしてシーガーのギターも黙ってはいない。まるでハードロックのギターのように弾きまくる弾きまくる。そして、戦い疲れた奏者たちの合間を縫ってChris Wood@MMWが気持ちの良いウッドベースを聞かせてくれる(笑)。

◆GalacticでもForgatton Brass Bandでもそうだが、ここでもそうだ。Mooreのドラミングは一緒にプレイするものたちにとってもクオリティの高い演奏を即す。そして聴くものたちに心地良い腰の緩みを提供する。なぜだ?どこが違うのだ??

◆少なくとも今感じるムーアのドラミングの個性はアクセントが頭にないことだ。ちょっとオーバーだが普通ズンズンズッズズンと書くとこうなる

しかし彼の場合

要するにスティックがドラムにあたる音ではなく、スティックがドラムから離れるところにリズムがあるのだ。そこが彼の独特の「間合い」なのであろう。叩きつけるのではなく、ゆっくり下から突き上げる感じ、そこに腰を緩ませる何かがあるに違いない。

◆まぁ素人の独断なんてどうでもいいが、取りあえずすばらしい、すでに本年のベストの1つに加えたいアルバムである。最初は裏切られたとまで思ったのに、こんなにすばらしいものだったなんて。あぁ俺の耳はたいしたことなかったなぁ、と改めて自らを恥じることになった。

◆公式ページはstantonmoore.com

メガネの魅力?:Tommy February6

at 2002 03/15 23:57

◆誰にでも人生で三回はモテる瞬間があるらしい。その瞬間を持続させるか、はたまた気付かずに終わるか、それがモテる人かモテない人か分かるという。

◆僕も思い返してみればすでに二回モテてたんだなぁという時期があった。1度目は23歳のとき、三ヶ月で四人もの娘に好かれた。しかしその時僕は婚約していた。もう一回はその直前に振られた娘のことが尾をひいていて淡白にならざるを得なかった。どう考えても持続させて「モテる男」に属することはできなかった。

◆「異性にモテるよりは同性にモテることが大切だ」という人がいる。しかし、どうせならどちらにもモテたい。自分の足元を見てみると「虻蜂とらず」でしかないことは分かっていても目標は大きくだぁ(笑)。

◆話を戻そう。その瞬間を如何に持続させるかということである。大体がそれまで経験したことのない売り手市場に戸惑い、あるいは天狗になりチャンスを浪費してしまう。戸惑った人は瞬間さえも楽しめず、天狗になった人は手痛いしっぺ返しを食らうというのが世の常というものだ。しかし本当に能力のある人間は、その瞬間を持続させてしまう。運も実力というが、運を持続させるのはやはり実力がモノをいうのであろう。それまでどうやって生きてきたか、結局そこに行き着いてしまう。

◆さて、Tommy February6である。初登場一位! すごいじゃないですか、メガネのチアガールという日本人のフェティッシュを満たすコケティッシュな外見、そして30前後の人には涙モノの懐かしいエレポップ/ユーロビート風味、まさに日本風カイリーミノーグちゃんである。

◆普通なら、こんなはずかしい格好はとてもじゃないが出来やしない。しかし川瀬智子自身、このイメージをソロ企画という一種のコスプレとして楽しんでいる。どうせ一時の企画モノだったらトコトンなりきってやろうという気概が伝わってくる。

◆音楽的にも、良く出来ているが別段新しさはない。むしろ、こんな派手な音なのに、しっくりくる雰囲気だ。何も冒険していない。ただ目の付け心がキャッチーなだけだ。企画モノだからそれでいい。

◆しかし正直言って初登場一位は驚いた。ブリリアントグリーンがこんなに人気があっただろうか? そもそもブリグリの曲を一曲でも歌える人っています? もしかしてブリグリの川瀬がトミーになったのではなく、トミー・フェブラリーがボーカルをやっているバンドがブリグリになってしまうのかもしれない。トミーもこの一枚でブリグリに戻るらしいが、あの凡百の青春バンドと人気一位のエレポッパーであるトミー、世の中はどっちを必要としているのだろうか?

◆ということで、お気に入りの赤いメガネに合う格好をしたくて、ソロ企画を立ち上げた川瀬智子は実力以上の人気を勝ち取ってしまった。キャッチーでキッチュでいとも簡単に消費しても良いものだからこんなに大きな花火になったのであろう。その花火をこれから、ブリグリでも保っていけるかどうかが彼女の実力になるのであろう。誰でも人生で3回はモテるのだ、それをどう持続させていくのか、今後のブリグリ・トミーに期待したい。

◆Tommy February6の公式は→(早めになくなるかも)。ブリグリの公式は→もちっこTOWN

◆PS.メガネっ娘。。。いいなぁ。。。とっても。。。。。

「曲」と「歌」:Deep Banana Blackout

at 2002 03/16 00:53

◆音楽にとって最も大切なもののひとつに「歌詞」がある。

◆「歌詞」があるかないかで音楽の存在ってかなり変わる。歌詞があると、曲構成が制限される:Aメロ・Bメロ・サビ、ということだ。歌詞があると、歌とオケという主従関係が出来る。歌詞があると、RockだったりPOPSだったり歌謡曲だったり演歌だったりジャンルが固定されやすい。歌詞があると、オーディエンスが歌詞に感情移入するという行為に音楽の重点が移りがちだ。歌詞があると、曲のタイトルが歌詞に依存される。歌詞があると、カラオケに使われることを意識して作られやすい(笑)。

◆どんなに素晴らしいギターソロでも、歌詞があることで「間奏」の扱いをされやすく、オケという従属的存在は歌にはどうしても勝てなくなる。ボーカルと楽器が等位置にあるためにはスキャットの様に歌詞がないことが必要条件になるであろう。歌詞がある曲は「歌」と呼ばれ、音楽をあまり一生懸命に聴かなくても、人の耳に残りやすく、それ故、ヒットチャートに登りやすい。

◆だから歌詞というのは音楽の表現をひどく縛るくせに売れる要素であるという痛し痒しの存在となる。

◆ということで楽器同志がライバル関係にあり、互いに腕を競うことでショウの見せ場となるJamBandというムーブメントにおいて歌詞というのはあまり意味のない存在だ。本人たちが(ムーブメントを踏み台に)チャートを賑わすPOPグループにでもなろうというのなら別だが、アルバムに申し訳程度に入っている歌モノもオーディエンスサービスや、その曲の必然性的に必要なものでしかない。

◆さぁDeep Banana Blackoutである。詳細なバイオはOrganicGrooveを読んでいただきたいが、要するにJAMシーンの根幹であり、JAZZ/FUNKとラテンとFUSIONとPOPSとを文字通り「JAM」っている21世紀型クロスオーヴァーサウンドの頂点的存在である。そんなDBBの初のスタジオアルバムFeel the Peelを聴いてみた。

◆ギターもベースもうねるうねる! すっごくヘヴィにうねりまくっています。そしてビートは軽く鋭く、ホーンは華々しく重厚、派手でディープでキマッています。一曲一曲もキャッチーで、思わず口づさんでしまいそうな曲ばかり。

◆しかし!ラテンのリズムに男女のボーカルが絡むところなんか、リズムがヘヴィなだけで、まるでマットビアンコのようです。要するにおしゃれさん流行モノの匂いがぷんぷん! 確かにとても上手いしカッコイイですよ、でもすぐに色あせて忘れられてしまいそうな感じがします。曲の出来がきっちり出来あがっててとてもコンパクトな分、消費されるのも早そうなのです。

◆何故? このおしゃれなPOPバンドが、SOULIVEやMMWなんかと同列に語られるのだろうかと思い、前作であるライヴ盤を聴いてみると、いやーすごいすごい、各々の楽器と歌とがぶつかりあい、取っ組み合う本当にジャムっています。こんなにしっかりと歌を唄っているのに歌とオケという主従関係が全くありません。楽器が唄っていて歌声がうねっています。

◆しかし、今作はやはりスタジオアルバム、どうしても歌を聴いてしまいます。どうすればいいのでしょうか? おしゃれでかっこよくて楽しいんだけどそれだけです。そのうちCD棚の中で忘れられてしまいそうです。このバンドにとってこれからのテーマはスタジオアルバムにどうやってライブと同じ程度のファイティングを持ち込めるかでしょうね。ライブ見たいなぁ。。。

◆彼らのHPはdeepbananablackout.comです。 

今月のオトシャベリへ、●アーティストリスト


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