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盛者必衰:Joe Jackson

at 2002 02/01 19:37

◆毎年の年中行事がやっと終わった。年一冊書き下ろしの塩野七生の「ローマ人の物語」を読むことだ。

◆今年は10巻目『ローマ人の物語X すべての道はローマに通ず』である。前巻『賢帝の世紀 ローマ人の物語IX』までの歴史を追ってローマという国の興亡を語るのといったん中止し、ローマ人の得意としたインフラ整備の話であった。

◆戦争のために進軍しながら道路を舗装し、橋を架けるローマ軍。征服した民族を奴隷にするのではなく、その街に道路を敷き橋を架け上下水道を作ってやる、そしてどんな民族でさえも有能ならば登用し(事実非征服民族の皇帝もいる)、条件さえ合えばローマ市民権を与えるという融和策をとることで、現イギリスから中東までの大きな領土を支配しPaxRomana(ローマの平和)を産んだ。

◆そんなローマ人の生活や文化に焦点を当てているのだが、その水準の高さに本当に驚かざるを得なかった。2000年前、要するに紀元前、日本では弥生時代だったころ、ローマには上下水道が完備され、山に穴をあけトンネルを掘り、車道・舗道・排水溝の完備された道路が版図の全面に張り巡らされていた。

弥生時代に水洗便所だったなんて!!

◆イタリアの首都ローマを含めて、現在でも道路も下水道も橋もトンネルも当時のものを使っている地域が多いらしい。改めて世界最初の帝国の偉大さを思い知らされるとともに、その近代国家然とした大帝国をぶち壊した蛮族の恐ろしさ、当時の文化を否定し暗黒の時代を築いたキリスト教の奥深さに驚嘆を隠し得ない。

◆この国の政体、国民の意識、政治手法、公共意識等、現在の日本を含めた各国は是非学んでもらいたいことばかリである。特に寡頭政治という政体は、自民党一党支配で、二世議員が増加している日本の政治に、様々な可能性を示唆しているようだ。

◆そうすれば、政治に対する庶民の鬱憤もかなり減るのではないだろうか。。。無理か?

◆さて、久し振りにJoe Jacksonの旧譜をターンテーブルに乗せた。79年の2ndアルバムI'm The Manだ。ジャケットの、まるでちんけなチンピラのような衣装に、人を食ったような表情、それ自体が社会への反発でしかないようなアルバムだが、内容的にはほとんど前作Look Sharp!と変わらない。変わったことといえば、彼自身が録音作業やバックバンドのメンツに対して慣れた事により、より余裕を持って彼らしく歌い上げている事だろう。

◆タイトなリズムに乗せて前のめりに唄うジョー、マイナーなレゲェのリズムでさえもPOPに聞こえてしまうのは、彼自身が自信に満ちているからだろうか。音全体がうまく組み合わさっておりノリが良い。シンガーとバックではなくひとつのバンドの音のように思えてしまう。この一体感が次作のBeat Crazyでバンド名義でのリリースになった所以であろう。

◆このアルバムはロックンローラー「ジョー・ジャクソン」の最良のアルバムなのだ。そして次作のBeat Crazy以降では見る事の出来ない「若くて」「怒りに満ちていて」「みんなで音楽を作っていく」ジョーを見る事が出来る。こんなPOPで楽しいアルバムは他には無い。それはこの後、数年でジョーがアーティストとして成熟してしまうことで、他人を必要としない美的価値観を構築してしまうからだ。

◆若いローマ共和国は版図を広げるうちに帝政という中央集権のシステムを作り上げた。皇帝が独り善がりになり機能としてよどんでしまう事で、近代社会に負けないくらい近代的な、世界最大の国家は滅んでいった。たかが蛮族、たかがイチ宗教によって。

◆ジョーのアルバムはもう10年くらい聴いていない。彼の音楽はすでにPOPSではなくなってしまっているからだ。

◆ローマ人の物語のHPは→新潮社へ。ジョーに関しては→joejackson.com

饒舌:Elvis Costello

at 2002 02/01 22:14

◆僕は言う「愛してるよ」。

◆何度もいう「愛してるよ」。古いタイプの男なら口が裂けてもいわないだろう。自分の女に向かって愛してるなんて。

◆電話で言う。ドライブの途中に言う。飯食いながら言う。僕は1日に何度言うのだろうか?

◆「愛してるよ」と言うことで、自分の愛情を確かめる。「愛してるよ」と言うことで、相手の愛情を確かめる。「愛してるよ」と言うことで、二人の間の気まずさを取り除く。「愛してるよ」と言うことで、互いに話題のないときにも会話を保たせる。

◆ぼくは饒舌だ。しょっちゅう誰かとしゃべっている。独り言も多いらしい。口に出さないと伝わっているかどうか不安だ。口に出さないと自分が誤解しているかもしれないと不安だ。口に出さないと気まずい空気が流れそうで不安だ。だからしゃべるしゃべるしゃべる。特にあんまり親しくない相手のときはそうだ。しゃべりまくる、無言の空間の恐怖につぶされない様に僕はしゃべる。全てをしゃべってしまおうとする。

◆言葉では決してなにも伝わらない事を知っているくせに。言葉ですべての隙間を埋めようとする

Elvis Costelloは言葉が多い。ラップでもないくせにほとんどしゃべっている。母国語でない人間にとって、決して聴き取れないようなスピードで彼は歌う。間奏はほとんどない。3分少々の曲の間彼はほとんど言葉を発している、それもつっかえながら。

◆たぶん、コステロはそんなに饒舌な人間ではあるまい。むしろ無口で気難しい部類の人間だろう。しかし若き日の彼の歌はほとんどが言葉である。泣きのメロディといわれる彼の旋律のほとんどは音引きではない。他のアーティストが気持ち良く歌い上げる部分を彼は次の/別の言葉で埋めてしまう。

◆そんなに不安なのだろうか? ヒットチャートの頂点を極めている頃の、まさに飛ぶ鳥をも落とす勢いだった頃のアルバムArmed Forcesでも、彼はほとんどの空間を言葉で埋め尽くしている。あたかも、分かってもらえないのを知っていても、口に出さなければ気が済まないとでも言うように。孤独や独り善がりや無理解やウソやまやかしに自分が気付かないように彼は言葉を発しつづけていたのかもしれない。

◆そんな不安や悲しみの裏返しでもあるかのように、このアルバムは明るく攻撃的でシャープである。走りつづけなければ倒れてしまうから敢えて楽しく走る、そんなアルバムだ。(画像は上がUS版、下がUK版)

◆新作が出るらしい→The Elvis Costello Home Page

二つの狂気:AstorPiazzolla

at 2002 02/03 23:45

◆今日はクラシックをきちんと聴いている人には笑止千万な話題だ。

◆先ほど、何気なくテレビのチャンネルを回したら、ダニエル・バレンボイムのインタビューにぶち当たった。オペラ公演のために来日したようだ。今は世界的な指揮者である彼、あまり良くは知らないのだが、僕は昔、彼のピアノをすごく嫌っていた。

◆まだ学生の頃、当時付き合っていた恋人の家で眠っていた僕は、何かに追われるような焦燥感に駆られて目が醒めた。何かわからない漠然とした不安や危機感、そんなものから逃げるようにベッドから起き上がると、夢の中と同じ音楽が流れていた。絶え間なく押し出される鍵盤の音、それは音楽を奏でるというよりはむしろ、鍵盤を使って人の心の中をかき混ぜるような音に近かった。

◆「嫌だ、嫌だ!」「何だコレは!?」僕は悲鳴のような叫びをあげた。目覚めのBGMにしてはあまりに凶暴で、あまりに絶望的で、あまりに扇動的だった。気分の安定したときならその刹那感や狂気に酔いしれることも出来ようが、目覚めて間もない時間には、それはとてつもない凶器に思えたものだ。それが、当時の恋人が愛してやまなかったアルゼンチンのピアニスト、ダニエル・バレンボイムと僕の出会いだった。

◆それ以来、彼の音は僕にとって狂気であり凶器であった。

◆だからあまり彼の音楽を深く知っているわけではない。しかし、その音を思い出そうとすると、なぜかいつもAstor Piazzollaを想起してしまう。同じアルゼンチンだからだろうか? 

◆5年程前に知ったピアソラの音、初めて聴いたときのそれはとても凶暴で狂気に満ちていて、聴く僕の心を焦燥感でいっぱいにした。Deadly Drive、まるで死に向かってまっすぐにスピードを上げていく車のハンドルを握っているかのようだった。メロディはドライバーの高揚する意識であり、随所に聴こえるバンドネオンとヴァイオリンの不協和音はエンジンの悲鳴のようだ。「完全なる破滅」と共在する「快楽の頂点」、まさに「破滅の悦楽」である。

◆こういう音を聞いてしまうとパンクやヘヴィメタやヒップホップが、なんて飼いならされた音楽なんだろうと思えてくる。彼らは電気仕掛けの大音量やビートや言葉やステージや、そういうものがなくては観客をアジテイトすることは出来ない。

◆しかしバレンボイムもピアソラも、そのピアノやバンドネオンだけで人の心の深奥にまで入り込み、その正気やその秩序やその合理性をドロドロになるまでかき混ぜてしまう。

◆そういう意味で偉大な音楽家二人は僕の中で互いに互いを想起させるに十分なアーティストである。

◆写真はピアソラの87年のアルバム、The Rough Dancer And The Cyclical Night(Tango Apasionado)。暴力的なまでの激しさとあまりにも切ないバラードが織り交ぜられた作品、以前紹介したTango Zero Hour(2000年10月)と同じく晩年の傑作である。

同じことが続く:Love Psychedelico

at 2002 02/13 11:59

◆理由は様々なくせに、同じことが続くことがある。

◆金が無い、去年の2月のMusicTalkでもこんなことを書いていた。「金がないのでしばらくCD購入を控えようと思う。だからしばらくは旧譜紹介」。今年、金が無いのは12月の残業が少なかったせいだ。去年は1月にスキーで散財したせいだった。

◆平成元年にひとり暮しをはじめ13年、毎年2月は金が無い。仕事も給料も家庭環境も様々な13年、しかし毎年2月は金が無い、ヤバイという事を言っている。人から借りたこともあった。ローンを組んだこともあった。様々な要因、しかしいつも金欠に陥るのは2月なのである。何故かわからない、だれか原因を調べて欲しいものだ。

◆まぁどれだけ原因がわかったところで現在わびしいのは変わらないだろう。他にも理由のわからない事はいっぱいある。理由を知ったところで物事が変わるかどうかはまた別の問題である。

Love Psychedelicoは新譜のクレジットを見る限り、結構豪華なバックミュージシャンに支えられている。しかしなぜかとてもシンプルに聞こえる。

Love Psychedelic Orchestraをじっくり聴いていると大変多くの音が飛び交っている。しかし聴き終わったとたん、そこに残っているのは、乾いているくせに感傷的に聞こえるギターのリフとKUMIの熱してもどこか冷静な歌声だけだ。

◆彼らの公式WEBでの1stのコメントにこのようなくだりがある「ロック・ブルース・カントリー・エレクトリック・アコースティック・デジタル・アナログetc...表現方法は様々にあるけれども、根底にあるものは何一つ変わりはない」

◆その言葉通り、彼らの音楽はどんなスタイルを取ろうと何一つ変わらない。「根底にあるもの」なんて問題じゃなくその存在自体がすべてのスタイルや音作りに勝って余りあるからだ。

◆また、KUMIの歌は日本語に聞こえない。つまり彼女の歌は言葉が伝わらないので、その表現方法のみがコミュニケーションの手段なのである。トーチソングであろうとハッピーソングであろうと、たとえ演歌のような内容であろうと、その「冷徹な激情」で覆われてしまう。ある方向ではとても表現力が豊かなその歌声は、ある方向ではとても画一的なものになってしまう。

◆ラブサイケを聴く者にとって歌の内容はまったく無価値でしかないのかもしれない。いや、無価値というよりはオーディエンスの心には歌の内容は届かない、届くのは圧倒的に魅力的で個性的な歌声と心地よくも刺激的なギターのリフだけだ。

◆1stのトークでも言ったが、ラブサイケは完成されているのだ。だから「今後」を期待してしまう。1stに比べ、確かに音作りは発展したかもしれない。しかし強すぎるオリジナリティによってすべてかき消されている。オリジナリティが強いのはとてもいい事だが、その反面、そのオリジナリティが飽きられてしまったらもうおしまいである。何をやっても同じ金太郎飴な音楽はそれこそ「同好会」的になってしまう危険性を抱合する。できればデリコには最前線で活躍していて欲しい。「チューブ」や「さだまさし」にはなってほしくない。

◆もちろんこのアルバムはファーストと同じ位いいアルバムだ。しょっちゅう聴いている。彼らのオリジナリティも大好きだ。しかしそのオリジナリティ以外のなにかを今度は提示してもらいたい。

◆どんな音を作っても「変わらない」というのも詰まらない。たとえその理由が好まれる事だったとしても。

◆公式HPは

大衆迎合?:SOULIVE

at 2002 02/16 00:48

◆愛すべき食い物屋の味が変わるのは悲しいことだ。

◆会社の近くに10人も入れないハンバーグのみの店がある。窮屈で狭いのだがとても美味しいのだ。

◆おこちゃま向け濃い味好きの私だが、ここの店のハンバーグにはおろし醤油だけで満足できた。肉の旨みをそのまま封じ込めた香ばしいハンバーグ、さすがに毎日は食べられないが、必ず行きたくなる大人向けの味のいい店だった。

◆しかし先日、久々に行ったら、BSEの影響だろうかとんかつや生姜焼きメニューが出来ていた。なんかいやな予感がしたが久しぶりに香ばしさを味わいたくなって入店、いつものチーズハンバーグをオーダー。

◆しかぁぁし! 出されたものは素のハンバーグとおろしではなく、こんもりとしたトマトソースの覆われたハンバーグらしきものと、その下にはパスタ。あれれ?口にする、 イタリアンハンバーグだ! しかも普通の(笑)。

◆いや、美味しいのだ。イタハンとして普通に美味しいのだよ。ハンバーグも変わらない味だ。しかし、トマトソースの濃い味でまったくハンバーグの香ばしさを味わえなくなっているんだなぁ。

◆せっかくの職人技がだいなしじゃんか! まぁ学生街だからこの方が好まれるのかもしれない、しかし美味しいハンバーグを作ろうと今まで苦労してきたんじゃなかったのか? その結晶をこんな形で放棄していいのか? これこそ大衆迎合というものだ、食を司る生き方としてこれでいいのか? これならファミレスでもいいじゃんか! 新鮮な材料、年季の入ったコネ具合、絶妙な焼き加減、それらすべてが真っ赤なトマトソースに汚されてしまっていた。

◆さてSOULIVE、3rdアルバムNEXTだ。オルガントリオだったのがサックスのサム・キニンジャーをメンバーに加え再出発した最初のアルバム。メジャーデビューの前作が1stよりも甘い音作りになっていた手前、サックス増やしてさらに甘くなったら単なるFusionになっちゃうのでは? と恐る々々CDプレーヤーに。。。

◆しかし、そこには以前よりも鋭利な音たちが待っていた。

◆1作目が切れのいいブルースだとすれば、このアルバムは切れのいいファンクかもしれない。とにかくリズムが1作とおなじくらいピシッピシッと決まっているのだが、その決まり方が妙に腰にくる。オルガンもベースもサックスも縦横無尽に踊りまわっている、しかし決してバラバラに楽しんでいるのではなくすべてドラムの一挙手一投足の延長線上にいる、その上でドラムがとても決まっている。

◆メンツが増えているのに音がソリッドになっているのだ。想像するに前作ではあくまでゲストプレーヤーたちに気兼ねして、あまり一体感を作れなかったのではないだろうか? 身内に取り込んで寝起きをともにすることで微妙な呼吸をあわせようとしたのではないだろうか? それならこの試みは成功としか言いようがない。

◆音を厚くし、サックスがメロディを奏でるという一般受けする方法論をとる、普通は二流のグローバーワシントンJrのような甘い音になっていき、それまでのファンが離れていくはずなのに、逆にサックスをオルガンと絡ませることでソリッドで攻撃的な音を作っていく。大衆迎合的な方法で、余計に自分たちの個性を浮き立たせ、音の職人としての技術を高める、憎いやつらだ。

◆まぁ、ミュージシャンとしての評価の決まる3作目にしてこれだけの成長を見せたのだから、こんな素晴らしい事はないだろう。これこそタイトル通りSOULIVEの「NEXT」である。これからの彼らの活動から眼が離せなくなることは間違いない。

◆彼らのWebはsoulive.com

君は天使ぢゃなかったのか?:あがた森魚

at 2002 02/19 23:51

◆突然だが、緑魔子が頭の中から離れない。

◆どうしてもその妖艶な容姿を眼にしたくてレンタルビデオ屋に走ってみた。しかし、というか予想通り、駅前の庶民的なビデオ屋に「緑」も「魔子」もなかった。

◆このアングラの女王の写真はネットにもほとんど落ちていなかった。あったとしてもぼかしのかかったモノクロ写真か映画のワンシーンの小さなものばかり、第七病棟関係でも石橋蓮司の快活な笑顔はあっても魔子の淫靡な微笑みにお目にかかることはなかった。

◆21世紀になんで魔子なのかというと、昨晩、あがた森魚日本少年(ジパングボーイ)を耳にしたからだ。つまりあがた森魚→「ぼくは天使ぢゃないよ」→緑魔子という連想である。まぁつまらぬことではあるが、妙に熱中している。週末にでも新宿のビデオ屋にいって「盲獣」か「暗黒街大通り」、「日本妖怪伝サトリ」でも探すとしよう。

◆恥ずかしながら、不勉強なものであがた氏に関しては、これまでは「赤色エレジー」や「バンドネオンの豹」くらいしか耳にしたことがなくタンゴのリズムに泣き節のフォークシンガーとしか認識していなかった。今回聞いたのは矢野顕子ちゃんのジャパニーズガールがこの日本少年(ジパングボーイ)の姉妹作だということを知ったからだ。

◆このアルバムすごいね。一人の日本の少年が世界一周音楽の旅をするアルバムなのだが、日本少年・ジャパニーズガールというネーミングがよ〜くわかりました。

◆あがた氏の大正ロマンチシズムと細野晴臣(ティンパンアレー)のアメリカ土着系音楽そしてムーンライダースのヨーロピアンサウンドが絡み合ってまさに90分間世界一周。すべての気持ちいい音楽集大成ってかんじ。

◆このアルバムを把握してアッコちゃんを聞くと、そこにある童謡やスキャットなんかの矢野ワールドが何故「日本少女」なのかわかってくるような気がする。

◆とりあえず、歌声というよりは泣き声としか思えない胸に染み入るあがた氏の歌声が、こんなに心地よく聞こえるようになるとは、それだけでもみっけもんなアルバムである。次は日本少年2000系を聴いてみるとしよう。

◆そういえば緑魔子っていまはいくつなんだろう? 95年ころだったか、「ぼくは天使〜」のリバイバル上映あたって舞台挨拶があったそうで後で見に行ったぼくはとても惜しいことをした。なんと緑魔子がそのすばらしい胸を観客一同に開陳したとのことだった。

◆あがた氏のファンクラブは→20世紀少年クラブ。資料やあがた氏の日記を含んだピロスマニアの部屋はこちら。

すでに何度も語られているような事:The Beatles

at 2002 02/21 14:43

◆「ビートルズは人気があるのに、影響を受けたと思われるアーティストが人気ないのは何故なんでしょう?」ということについて考えてみた。

◆20世紀最高のPOPスターであるThe Beatles、そのPOP音楽のみならず現代のカルチャー全体を揺さぶった影響力は偉大であり、先進国と呼ばれている国々の、おそらくほぼ全ての人間が、その影響を受け、その恩恵に浴していると思われる。

◆だからすべての音楽が何らかの形で影響を受けているといってもおかしくないわけで、厳密に言えば「影響を受けたと思われるアーティスト」というのは人気があったりなかったりする。

◆さて、屁理屈はよして、ここで「影響を受けたと思われるアーティスト」といわれているのはその音楽スタイルの影響を受けているアーティストという意味なのは明らかだ。しかし、ビートルズの音楽スタイルというのはどういうものだろう?

◆マージ-ビートは明らかに初期ビートルズの音楽スタイルだが、エリナーリグビーの様なクラシカルPOPもそうであろう。アイアムアウォーラスのようなアシッドっぽいものも、クライベイベークライ、アクロスザユニバース、バックインザUSSR、イエローサブマリン、オブラディオブラダ。。。曲名を例にしたほうが分かりやすいくらいビートルズの音楽スタイルというものは天地左右東西南北自由自在に飛びまわっている。

◆その垣根の低い自由さ、ブレンドさがビートルズの本来の良さなのだろう。White Albumを聴くだけでAround The World in a DayならぬListening The World Music in 90 minutesだ。ただ、紹介するだけではなく、様々な音楽を自分たちのフィルターを通してPOPミュージックにする。そういうことがビートルズの音楽スタイルだし、その魅力なんであろう。

◆しかし多くのフォロワーミュージシャンはそういうことではなくただ、ビートルズの実験性や音の構成に眼が行ってしまっている。

◆たとえばXTC、以前のMusicTalkでApple Venus Pt. 1をThe Beatlesのエリナーリグビーのようだと評したがエリナーリグビーのような緻密な構成やメロディが多ければビートルズっぽいというのでは、ビートルズと同じような大衆的な評価(人気)は得られない。エリナーリグビーもビートルズだが、それだけをやっていたのでは一曲ヒットするだけであろう。それまでロックンロールをやっていたスーパーグループが、敢えてクラシカルな冒険をし、それが合格点の音作りがなされ、なおかつメロディが素晴らしいということにエリナーリグビーの評価があるというもの。

◆音的には非常に近いTodd Rundgren。彼はメロディも構成力も実験性も素晴らしいが、実験しすぎて大衆文化からは遠く離れてしまっている。半歩先ならリスナーはカッコ良く感じられるが、一歩以上先んじられるとマニアックな印象をうけてしまうものだ。また、ネクストビートルズといわれたThe Nack、初期ビートルズの勢いとPOP性はあったが実験性や構築力がなかったので飽きられてしまった。

◆逆に半歩先を行き、いつも新しさとPOPさを持ち合わせているPrinceなんかがビートルズらしいのかといわれればそれもNOなのかもしれない。プリンスがいつもヒットを飛ばすことが出来ていないというのは、彼がひとりであるということに大きな原因があるのかもしれない。他者の目を通す事のない創作物は多分に批評性を失い、半歩先のつもりが2歩くらい先に行っていることになりがちだ。Todd、Andy、Totらのフォロワーにもこの傾向がある。ビートルズには優秀で歯に衣きせない身内が必要なのだ(ソロになってからの四人の活躍を見れば、いかに批評性が必要かわかる)。

◆たとえばいくらビートルズっぽいとはいってもアルバム全曲アイアムアウォーラスだったら聴く人は本当に少ないだろう。ビートルズの一部の音楽性を特化して(あるいはコピーして)自らのカラーにしても玄人受けはしても、決してヒットチャートに君臨する事はない。

◆彼らの要点はバランスと大衆性なのだ。誰にでも気に入られる音作りと、新しい冒険、その二つに対するバランス感覚が優れていたからスーパーグループなのであって、決して彼らの実験性やポップ性、構築力を特化したところでフォロワーだとはいえないし、その特化したフォロワーは万人には受け入れられまい。

◆様々なアーティストが挑むホワイトアルバム、その万華鏡のような世界を越えられるアルバムが現れないのは、ホワイトアルバムの実験性・多様性・POP性・構築力・批評性、どれが足りなくても追いつけないからだ。「ホワイトアルバムを思わせる」アルバムはあっても「ホワイトアルバムを越える」アルバムにお目にかかったことはない。

トランペッターと白昼夢:Till Bronner

at 2002 02/26 23:46

Till Bronnerの新作を聴いていて「死刑台のエレベーター」を想起してしまったのは僕だけなのかもしれない。

◆その歌うトランペッターティル・ブレナーのBlue Eyed SoulはJAZZファン以上に、ブラックミュージックやジャムバンド、クラブもの好きに聴いてもらいたいアルバムだ。

◆彼の略歴等はUniversalMusicのHPを見ていただきたいが、そのミュートの効いたかすれがちな音色と、バックのクールだがしかも腰にくるグルーヴのブレンドがとても気持ちいい。

◆面白いのは、部屋で何気なくかけているととても和むアルバムであるのに、カーステレオ等で低音を効かせると思わず身体が震える程シャープでファンキーなのだ。不思議なアルバムだ。

◆さて本題に戻ろう。映画「死刑台のエレベーター」といえばマイルス・ディヴィスだ。ジャンヌ・モローが行方不明となった恋人を求めてパリの街をさ迷い歩くシーンがある。モノクロの陰影の曖昧な中を無我夢中に歩き回るフロランス夫人の悲壮感や焦燥感を嫌が応でも昂ぶらせるのは、追い立てるようなビートの上を這いまわるマイルスのペットの音だ。この映画はマイルスの音色がなければここまでシャープで、ここまでミステリアスな映画としては、人々の心に残らなかっただろう。

◆この映画の焦燥感、何故かティルの音色とも合う気がするのだ。何も彼の音とマイルスの音が似ているといっているのではない。マイルスのクールな中にとてつもない怒りと力を秘めた音とティルの慎み深さや諦念によって肩の力を抜いたような音とは、同じトランペットの音色でも大きな開きがある。マイルスがどうとかは関係なく、新作の中のティルの音は雑踏の中で際立つジャンヌの悲しみを表現するのにぴったりの音に思えるのだ。

◆もちろんマイルスの音とは違うので、ティルの音を使うと映画の印象自体大きく変わるだろう。恋人を探すジャンヌの表情は、マイルスの場合ほど、危機感が感じられなくなる。それ以上にジャンヌの美しさ、優雅さ、スマートさが引き出される。車を盗み出す少年たちからは犯罪の匂いが薄れ、窃盗という非日常に自分たちを置いてしまったことへの非現実感がクローズアップされることであろう。全体的に切羽詰った殺人劇が、よりクールで知的な完全犯罪(とその予想外の失敗)というカタチを帯びてくるに違いない。

◆そんな白昼夢をうつらうつらと浮かべつつ、このアルバムが肌に確実に染み込んで来るに任せる。そして彼のトランペットやフリューゲルホーンを踊れるものにしている日系DJのサモン・カワムラ、次第にぼくの興味は彼に移っていく。。。

◆蛇足だが、チェット・ベーカーと比較されるように、ティルは唄いもする。しかしチェット・ベーカー同様にその甘い歌声は、そのスタイリッシュされた音楽構成の箍を緩めてしまっている気がしてならない。君にはラッパ吹きに徹してほしいものだ。

今月のオトシャベリへ、●アーティストリスト


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