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徳のある国:BluesBrothersBand

at 2001 10/10 15:49

◆アメリカが戦争を始めた。イギリスとの合同軍だ。

◆負け戦とは行かないまでも甚大な被害が想定できるアフガニスタンの援軍にと、隣国パキスタンの猛者が集まっている様だ。米帝の侵略反対だと、流血デモまで起こっているようだ。

◆アメリカに対するイギリス、アフガンに対するパキスタンのように、日本が有事の際、誰か日本のために立ちあがってくれるだろうか? 日本のために血を流してでもシュプレヒコールを起こしてくれるのだろうか?

◆国も人も「徳」が必要なのだろう。

◆当代きってもエンターテイナーJohn Belushiが若くしてその生を閉じて15年あまり、まさかBlues Brothersの映画が帰って来るとは誰も思わなかっただろう。BluesBrothers2000を見ることが出来る時代に生きている自分がとても幸運だと感じた。

◆映画自体の出来や前作との関係がどうあれ、ともかく楽しい映画であった。なんと言ってもクラプトン、ウィンウッド、タジマハール、ドクタージョン、ジョニーラング等々、当代きってもスーパーアーティストたちがあれほど沢山登場すると感動モノだった。

◆ベルーシやエイクロイドというショウビジネスマンたちの人脈も重要だが、それだけではあんなに沢山の人たちは集まらない。集まったアーティストたちは、きっと映画ブルースブラザーズを見て、笑って、楽しんで、彼らの音楽に対する愛情を感じ取ったのだろう。多くの人たちが手弁当だったということだけでも分かる、これらのスーパーアーティストたちは正にブルースブラザーズに出演したかったのだ。

◆ブルースが好きで、敬意を持った人たちが作った映画、そこには、有名人たちでさえも自ら集まってしまうほどの「徳」があるのであろう。こんな「徳」を持てるようになりたいものだ。僕自身も、そして日本国も。

オンラインクーポン:ROXY MUSIC

at 2001 10/11 21:38

◆近頃、CD-Rを手にしたセイで、レンタル→R焼きばかりしている。1週間に10枚近く借りている週もあるくらいだ。

◆一枚380円、TSUTAYAオンラインクーポンだと190円、アーティストが命と時間を削って作った作品を楽しむにはあまりに安い金額だ。

◆子供の頃、レコードは2800円くらいで、まだレンタルなどという便利なものはほとんどなかったので、小遣いや食費を削ってレコード屋に走ったものだった。やっと手に入れた至高の一枚を恐る恐るビニールから出す、そして傷をつけないように細心の注意を払いターンテーブルに乗せ、針を落とす。。。一枚30〜40分、幸せな時間だった。

◆そしてレンタルレコードが出来た。。。返却するときのレンタルショップの店員の傷チェックの間のドキドキがたまらなく嫌だった(笑)。今はレンタルもCDになり、とても気軽だ。返却箱に投げ入れるだけである。ある意味物足りなくもある(爆)。

◆しかし、今は一枚190円で70分近く楽しめる。音楽の値段も下がったものだ。例えばビートルズ、あのRock/Popsの革命家たちのすべての活躍を手にするには、12×190円=2280円、John Lennonの人生をすべて堪能するのにさえ5000円程度である。命を削り、人生を削った果ての結晶が普通のサラリーマンの日当より遥かに安いとは。。。そんなことで心が通うのかしらん?

◆しかし安いことは良い事だ。消費生活が豊かになる。? つまり音楽を手に入れる事は消費生活の一環なのか? 当たり前だが、今ぼくたちは音楽を消費している。たしかに、かなり前向きに消費している。消費されるものは磨耗されるのも早い。アーティストのみなさん、あまり軽軽しく消費されることを拒む音楽を作ってください。「これだけはレンタルじゃなくて購入したい」そういう音楽を待っています♪

◆POPSなんてファッションだと割り切って、消費媒体を作ろうとしたROXY MUSICの輝かしいラストアルバムAvalon。ほとんどはレンタルで消費してしまったROXYだったが、やはりこのアルバムだけは軽軽しく磨耗できまい。だってそこにあるのは至福のパラダイスだから。。。

老いらくの恋:Ibrahim Ferrer

at 2001 10/18 14:50

◆幾つになっても男女の問題は男女の問題なのである。

◆俳句結社「春燈」でご活躍の鈴木真砂女さんのエッセイ集「お稲荷さんの路地」(富士見書房・角川文庫)の中で以下のようなくだりがある。

「私の運命を変えた人も十六年前この世を去り、鎌倉霊園に眠っている。三年前この人の妻が亡くなり、一つ墓石の下に寄り添って眠っていると思うと胸の中は穏かでなく、その年は墓参を怠った。翌年の命日には例年のように墓参に出かけたが、好きだったお酒を供えているうちに二つの骨壷が仲よくこの下に並んでいると思うと気が納まらなくなって、手桶の水をお墓へジャボジャボかけて憂さを晴らした」

◆もうすぐ90に手の届くひいおばあちゃんの行動とは思えない分別のなさ、やはり幾つになっても恋は人を無分別にしてしまうのだろう。それにしても16年前に亡くなった男への想いを保ちつづけられるのも素晴らしい事だ。それも達観した感謝だとか、想い出だとか、そういう事ではなく、一緒に墓に入った女に対する嫉妬である。彼女の中ではいまでもその男というのは、生々しく生きつづけているのであろう。

◆我々の様に、今だ老いを現実の事として把握できない年代の若輩者にとって、老人というのは男でも女でもなく老人だと見がちであるが、人というのは幾つになっても成長しないものなのであろう、老人も胸ときめくし、恥ずかしがるものなのだ。

◆以前、父と母方の祖母が二人だけで一夜を過ごす事となった。父は50代、祖母は70代、同居をはじめて20年以上となる。父も母も私たち孫もなんとも思わなかったが、祖母にとっては血のつながらない男性との二人だけの夜、とても緊張して寝つけなかったそうだ。

◆映画BuenaVistaSocialClubの中では老いた男女の恋歌を幾つも聞く事が出来る。Ibrahim Ferrerも切なくいとおしく恋歌を歌い上げている。こんな飄々とした、人生を達観したようにも見えるオヤジだが、やはり男は男、その恋焦がれる気持ちはか細いながらも男性の力を感じさせずにはいられない。

◆老いらくの恋とは良く言ったものだが、幾つになっても男は男であり、女は女なのであろう、そこには肉体的な衰微は介入しない。

◆鈴木真砂女さんの句集「都鳥」はとても素晴らしい。

堕落の悦楽

at 2001 10/22 19:36

◆あーあ、もうダメです、あなたの魅力にかないませんでした。。。

危険です。あなたを自分の物にしようなどと、命に関わる愚行だってことは十分知っています。でも欲望がぼくの分別をすべて台無しにしてしまいました。

◆そのとろけるような感触、ずっしりした質感、甘い舌触り。。。あなたをテレビで見かけたときから、ぼくの頭の中はあなたで占められてしまったのです。まさに禁断の果実、それがあなたでした。

◆あなたが早急に必要だったのです。もうあなたにしゃぶりついていないと気が狂いそうでした。

◆だからって、安物でごまかそうとしてしまった自分が愚かでした。どうせ命をかけて、あなたの悦楽を味わうのなら、あなたのもっとも素晴らしい部分を堪能するべきでした。

◆しかし、ぼくが手にしたあなたの肌は浅黒く表情は貧相で、その堅く閉ざされた肉体からはぼくの人生を堵する価値のあるジュースは溢れ出しませんでした。



◆あぁどうせなら。。。





神戸牛にすればよかった。。。

見立てとトランスジェンダー:CultureClub

at 2001 10/24 12:18

◆「精霊流し」「神田川」「22歳の別れ」「あずさ2号」「恋」「なごり雪」「さらばシベリア鉄道」演歌からポップスまで、日本では男性が女性の立場の歌を、女性が男性の歌を歌う事が非常に多い。

◆ゴッツイ兄ちゃんやハゲオヤジが平気で「女心の〜未練でしょう」などと歌うというのは考えてみれば可笑しなモノだ。英語の曲ではそういう事は決してない。Beatlesの名曲「And I Love Her]」程度でさえも女性が歌う場合は「And I Love Him」と男女関係をひっくり返している。そのあたりは英語に男女を分ける代名詞がないからであろう。「I」が「ぼく」なのか「わたし」なのか「おいら」なのか「あちき」なのか「おいどん」「おれ」「あたい」「わし」「ちん」判別不可能なのである。すべて「I」。この部分が原因としてとても大きい。

◆しかし、それだけではない。日本にはトランスジェンダーが伝統として存在する。「若衆歌舞伎」「歌舞伎」では女形が、「女歌舞伎」や「宝塚」では男装の麗人が跋扈する。長唄・常磐津でも平気で異性のセリフを歌い上げる。「お痛わしや、十兵衛殿〜」と声を張り上げるのは大体人間国宝のおじいちゃま方だ。彼らは名前でさえそうだ。「何代目××太夫」というだけでは男性なのか女性なのか全く分からない。藤山寛美・直美が父娘の名前だと誰が思うだろうか? そういえばのび太もアムロもシンジもオスカルも声は女性のものである。

◆オカマという商売があるが、これは不似合いな女装で他人の笑いをとる。この商売は全世界共通である。その言葉遣いや服装の違和感が奇異の目で見られること自体でその個性は成り立っている。しかし日本の伝統的トランスジェンダーたちは、男装・女装という行為自体を商売にしているわけではなく、それらはむしろ基本であり当たり前で、その上に乗っかっている(真面目な)芸が個性となる。日本的トランスジェンダーは本人にとても観客にとってもトランス自体は無意識に受け入れているのである。

◆決して女性的に美しくはない男たち。若い頃の玉三郎や勘九郎ならまだしも団十郎や右近の女装に、男が女を感じて抱きたいと思うかというと決してそんなことはあるまい。あくまで舞台の上のことであり、自分の世界とは異質な世界の中で女性として見立てるのである。

◆そこに性を越えた性の美しさを見るのであり、女性以上に美しい女性が存在しうるのであろう。リアリズムとは別次元の話だからこそ、観客も素直に受け入れ、素直に評価できるのであろう。

◆以前、2代目五條珠実師匠の舞を見たとき、80をとうに過ぎた(客席からでも確認できるほど)皺くちゃのババアが、少女に見えたことがある。無邪気に野で戯れる無垢な少女の可愛らしさが舞台全体を包み込み、妙に和んでしまった。絶対少女に見えるわけがない。衣装も素踊りに近いのだ。しかしぼくらは舞台の上の師匠の表情や仕種を通して、その向こうに少女の戯れる野原を見ていた。見立てとはそのようなものであろう。美しいものだ。

◆そのような文化の息づいている日本だからこそ、トランスジェンダーは素直に受け入れられる。現実主義中心の欧米文化には決して生まれえない醍醐味である。

◆その服装から色物として見られ、正当な評価が受けられなかったCulture Club。しかし彼らの音は、それまでのAOR-Fusion-NewSoulという流れのブルーアイドソウルとは違った形で、ブルーアイドソウルを世界に見せつけてくれた。彼らの音がなければSimply RedもStyle CouncilもBlow Monkeysいなかっただろうし、そうするとUKクラブシーンというのもかなり違ってきていたであろう。

◆リアリズムが基本嗜好になっている英米の文化において、ボーイジョージの見たてが受け入れられなかったのは仕方がないことだったのかもしれない。ジャケットはColor By Numbers、ホワイトビニールが美しかったです。

今月のオトシャベリへ、●アーティストリスト


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